プロフィール

 

福沢 正樹    /  Fukuzawa Masaki

 

今までに指導に携わった人数は1200人以上。

吃音改善セラピスト

 

理解されない吃音

「痛い!!」

 

あまりの激痛に、僕は上履きを脱ぎ捨てた。

 

足の裏を確認すると、画鋲(がびょう)がしっかりと足の裏に刺さっていて、足の裏は血でベットリと滲んでいた。

 

 

思えば、教師から

クラスの大勢の前で教科書を音読することを

強要されるようになった頃から

地獄のようなイジメの毎日が始まったのだった。

 

 

もちろん、

 

「吃音症の子供に対して、音読を強要するなんて

とんだ非常識な教師だ!」

 

と思うかもしれない。

 

 

ただ当時は、吃音・吃りに対しての世間一般の理解は

今ほど進んでいなかった。

 

 

それもあってか、吃ってしまう子供は、

 

・単に緊張している

・話すのが慣れないだけだ

 

と理解されることが本当に多かったのである。

 

もちろん

“だからしょうがない”とは言えないし、僕もそんな風潮は今でも許せないと思っている。

 

 

ただ、事実として

そんな考え方にどっぷり浸かった

ある国語の教員に、何度も何度もクラスの全員の前で音読を強要されていたということだ。

 

 

事実、その国語教師は、僕が吃っているのを聞くやいなや

 

「慣れが足りないだけだ」

 

と言って、授業中何度も何度も僕のことを指してきた。

 

「」

 

頭には言いたい言葉がはっきりと浮かんでいる。

 

緊張で頭が真っ白になっているわけでもない。

 

でも、 のように少しずつしか出てこなかった。

 

 

それでもゆっくりと丁寧に、正確に話したつもりだった。

 

 

ただ子供というのは残酷である。

そんなことはお構いなしに、

 

 

気づいたら、僕の読み上げている声が聞こえなくなるほど

クラスが爆笑の渦に包み込まれていた…

 

イジメに次ぐイジメ

そこからはイジメというイジメの連続だった。

 

教室のドアをガラッと開くと、

 

「お、お、お、お、お、は、は、は、はようございます!」

 

とクラスに響き渡るような大声で馬鹿にされる。

 

こんなのはまだ序の口だ。

 

カバンの中の

教科書にはグレーのアメーバのようなシミができ、2〜30ページほどが

べったりと張り付いて一体化していた。

 

牛乳がたっぷり染み込んだパンが、教科書の間に挟み込まれていたからだった。

 

 

他にも

 

母が作ってくれた弁当のご飯の上に、大量のダンゴムシを入れられたり、

 

画鋲を上履きに隠されて足を怪我したり、

 

もはやその上履きすら見つからないことなど、日常茶飯事だった。

 

辛かった。

 

言葉では言い表せないほど悲しくて、悔しくて、押し潰されそうだった。

 

誰かに助けを求めたかった。

 

 

でも学校の先生はいじめを見て見ぬ振りする

先生ばかりだったし、

 

 

両親は僕が6歳の頃に離婚し

母は一人で僕を養うために、朝から晩まで懸命に働いていたから

親にも相談できなかったのだ。

 

 

「虐められているから学校を辞めたい。転校したい」

 

なんて口が裂けても言い出せない経済状況だったのである。

 

その間もいじめはどんどんエスカレートしていく。

 

 

時には、体育館の物置の裏に呼び出されて、6人の前で

パンツを脱がされることもあった。

 

 

6人は

裸になった僕を土がついた靴で蹴ったり、

踏みつけたりした。

 

 

「トランポリンだーー!!」といって

一人ずつ僕の腹をジャンプ台にするかのように、6人に両足で踏みつけられたりもした。

 

 

内臓が破裂するかと思うほどの痛みだったけど、まだ死んでないんだな…

と思って、自然と涙が出てきた。

 

 

毎日毎日毎日毎日、毎日のように僕はゴミ扱いされ続けたのである。

 

休止に一生を得た日

そんなある日、

ついに僕の中の何かがプツンと切れた。

 

ある日、いつものように学校から変える通学路の途中のこと、

 

目の前の視界が急激に狭くなり、周囲の車の音もどんどん小さくなっていく気がした。

 

 

正直、そこからの記憶が曖昧だが、

気がついたら6階の団地のベランダの手すりの上に

フラフラしながら立っていた。

 

ふと脳裏に

 

母さんが仕事から泣いて帰ってきた時の顔が思い浮かんだ。

 

母さんの笑ったときの

特徴的な目尻の小皺が思い浮かんだ。

 

テストで初めて満点をとった時の、驚きと喜びが混ざった母さんの顔が浮かんだ。

 

そこからの記憶はない。

 

 

気がついたら病院のベットにいた。

確実に死ねるように頭から飛び降りたはずが、助かったのだ。

 

 

僕が飛び降りたのを目撃していた近隣住人に聞くところによると、

 

 

僕が6階のベランダから飛び降りた後に、団地の下にあった木の枝に

に体操着のフードが引っかかって衝撃が緩和されてから

地面に落ちたらしい。

 

 

助かったのだ。

いや、助かってしまったのだった。

 

吃音との決別

結局、半ば不登校のような状態を続けながら

中学校・高校をなんとか卒業し、

僕は大学に入学した。

 

 

大学は今までとは違い、友達と関わらなくても済むし

一人で行動できるから気が楽だった。

 

 

授業で発表する時は憂鬱だったし、

実際、吃っている僕の方を見ながら笑いを堪えている男子生徒はたくさんいたものの、誰も僕のことを笑う者はいなかった。

 

 

このまま大学に行って

エンジニアにでもなってあまり人と関わらない仕事をすれば将来は大丈夫だと思っていた。

 

 

だが、唯一仲のよかった親友の父が

リストラにあった話を聞いて、そんな考えは甘かったのだと気づかされた。

 

 

というのも、親友の父がリストラされた原因は他でもない

“吃音”だったからだ。

 

友人はこんなことを言っていた。

 

「俺の親父は

エンジニアとして就職して、人とのコミュニケーションが少ない仕事ってのもあって

15年ほどは問題なく上手くやれていたんだよ。

 

でも、 なって 機会が増えたんだと。それであまりにも使えないから

首切られたんだ。」

 

 

そんな話を聞いた時、僕はとてつもなく不安に思った。

 

 

自分もこのままいけば、まず間違いなく普通の仕事に就くことはできないのは

間違いなかったし、

最悪失業する可能性も高いと確信できてしまったからだ。

 

 

やはりもう時間はないのだ。

 

大学生の間になんとしても吃音の問題は改善しないといけない。直感的に悟った。

 

 

そこからはあっという間だった。

 

インターネットで検索をかけ、

吃音を矯正してくれるセラピストを見つけたのだ。

 

 

 

正直な話、最初は半信半疑だったし、

当時の僕にとっては怪しくて不安だった。

 

 

でも吃音が治るならなんでもいい。どんな手段でも選ばない。

 

藁にもすがる思いで、その吃音教室とやらに通うことを決意した。

 

 

毎週1回、金曜日の夜にセラピストと会い

吃音改善のセッションを受け続けた。

 

 

最初の1ヶ月ほどは全く効果がなかったが、

2ヶ月を過ぎた頃から、効果が現れてきた。

 

 

そして気づけば「吃音は改善できる」と確信できるほどまでになっていた。

 

 

今では愛する彼女と一緒にディズニーランドにディズニーランドに出かけて

に乗ったり

 

 

 

 

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

 

 

 

 

当サロンでは

今までに1300人を超える方の吃音改善に向き合い、多くの方の吃音を改善することに成功してきました。

 

 

 

 

数え切れない方が、本当に歩みたかった目標を叶えて

理想の人生を歩んでいます。

 

もし吃りがなかったら、こんなことができのに。

あんな夢をかなえられたのに。

 

 

 

当サロンは

 

吃音から解放され、理想の人生を取り戻す

 

あなたのパートナーでありたいと考えています。

 

 

 

僕と一緒に、本当に歩みたかった人生を取り戻しましょう。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。